会津若松 歴史旅をしてきました

2019/03/27
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福島県会津若松地域は、藩政時代から幕末まで、数々の歴史的な遺物を要している貴重な地域です。そんな旅人を引き付ける会津を、妻と二人で先日訪ねてきました。先ずは車を、観光客のため無料で駐車させていただける駐車場に駐車させていただきました。無料の駐車場があるのは良いですね。観光客用先進的な取り組みに感謝します。なんたって駐車場を安く、さらに無料で利用できるなんて、観光客にとっては何よりなんですよ。馬鹿にならない駐車料金、そんな小さな気使いいが嬉しいね。更に見どころを巡回出来るバス路線を設けている会津若松市の施政に感謝しています。同様の地域には草津もありましたね。ほかの地域も見習ったらいい。観光に生きていく地域は参考になるかも。先ずは飯盛山。政権交代を成し遂げた戊辰戦争の跡を如実に示しているこの地。いつ行っても観光客が絶えることはないようですね。この日もご多分に漏れず大勢の人で溢れていました。いつものように説明を受ける人たちの中に加わって説明を拝聴。またまた、これまで知りえなかった話を聞くことができました。白虎隊たちの志に感銘をうけた海外からの理解者が、何人かあったようですね。それにしても、はるか先に見えていた「鶴ヶ城」が、ビルに隠れて見えなくなってしまったのは、誠に気の毒。飯盛山を降りてから次は近藤勇の墓。とことこ歩いて小高い丘の中腹に目指す幕末の雄の一人近藤勇の墓がありました。斬首された首を掘り起こして、ここ会津に埋めなおされたようで、藩政時代から明治へ大きく変わる激動の時期の一端が、ここ会津で見ることが出来ました。テレビや雑誌で報じられるこの激動の幕末の時期を、現実で受け止められる貴重な遺跡です。次は東山。今から約50数年前、小学校の遠足で泊まった温泉地で思い出の地でもあります。ここはには道端にあったバス停から「あかべえ」に乗車。小っちゃくて可愛らしいバスに乗って数分、いかにも観光客らしい気分を味わう。東山では与謝野晶子と竹久夢二の歌碑をパチリ。ここ会津にも著名人の足跡が残っていたんだね。東山を後に、「あかべえ」のバスダイヤと見比べながら、市街地に向かって、ひたすら歩く。天気が良かったせいか、歩くのが心地よかったよ。地図を片手に行き交う人に尋ねながら、NTTの鉄塔を目安に、蒲生氏郷の墓を目指す。空襲にあわなかったせいか、道は狭く城下町の面影をまだ残している会津若松。それなりにいいね。蒲生氏郷は、伊達政宗が当時会津を支配していた秀吉子飼いの芦名を倒して、この地を納めていたが、秀吉の命で米沢に移された後を担った武将で、政宗の良きライバルでもあった。私たちの歴史旅はさらに続く、なぜか観光案内図に伊達政宗の解説板が表記されている箇所があった。どうして、こんなところにあるのか知りたくなってしまった。鶴ヶ城内にあるなら分かるが。なにか、ゆかりでもあるのだろう。地図を持っての歩き旅。なかなか簡単にはいかない。詳細な地図なら良かったんだろうが、そうではなかった。幾たびか現地の方々に尋ねました。いずれの方も親切丁寧。嬉しかったと同時に、改めて観光に生きる会津若松の市民感覚に感謝したい。行きつ戻りつ、やっとの思いで政宗に出会うことが出来た。なんと、ここは政宗毒殺未遂事件の舞台の屋敷跡だというではありませんか。私にとっては重要な地点。歴史に「もしも」があったなら、世の中、今とは別の世になっていたかもしれませんね。秀吉の小田原参陣の命に、なかなか結論を出せずにいた息子政宗を陥れ、次男の小次郎を跡取りにと思う母の企てのあった舞台だ。またひとつ政宗に関する史実を、自身の懐に加えることが出来た瞬間でした。当時の様子を思い描く、まさに歴史旅の面白さを味わうひとときでもあります。こうして朝から歩き回って足腰も、正直かったるくなってきた。車を留めた所に戻ろうとバス停を見つけ、ダイヤを眺めると、市内循環観光客向けの「あかべえ」は、既にラストタイムのようだ。まごまごして、脇を通る女子高生二人連れに思わず声を掛けた。循環に乗ると遠回りになるので、出来るだけ早く、出来れば直接飯盛山方面に向かうにはどうしたらよいか尋ねる。彼女たちは親切に、その問いに応じてくれた。通常の路線に乗って、駅で乗り換え、あとは駅で再度尋ねるといいのでは。こんな些細なことにも、親切に応じてくれた彼女たち。土地勘のない観光客にとっては、何よりも嬉しい。歴史的な遺産、名所を数多く残している会津若松。見どころは、まだまだ残っている。観光に生きる会津。「おもてなし」の心を持っている市民感覚が、このような場でも生きてくるのではないか。こうして心地よい余韻を頂きながら、妻と二人の歴史旅の一日を終えることが出来た。

『食材持ち込み炉端焼き専門店』

【セルフ炉ばたや いずみ・店主のつぶやき】