古関裕而さんの後は あの円谷幸吉さんを偲ぶ機会が

2020/08/02

昭和47~9年の三年間、私は仕事の都合で福島市で暮らしていた。もちろん現在のように、古関裕而さんなんて頭の片隅にもなかった。20代だから当然といえば当然だった。今回、元赤十字病院脇の記念館を観た後は、当時、頻繁に利用していた大町商店街を訪ねた。妻も当時暮らしていた街でもある。二人で昔一緒に遊んだ街並みを思い出しながら、その変貌ぶりに驚いた。かすかに面影が残っている程度である。なじみの飲食店も当然であった。年配の方に伺うと、だいぶ前に店を閉じたという。40年、50年の歳月がそうさせたのだ。大町商店街の一角に「古関裕而まちなか青春館」を目にし、当然のように足を踏み入れた。記念館と同様、彼の功績、足跡を展示している。「喜多三」の大きな看板も展示されていた。現在、NHKで放送されている「エール」の舞台に活用されている本物の店の看板だった。なんとなく実感が湧いてくるではないか。福島が生んだ著名人は数多くいらっしゃいますが、昭和39年の東京オリンピック・マラソンで3位になった円谷選手の展示コーナーがあって、彼が着用していたジャージーが展示されてあった。これが本物なんだと感慨しながら、その脇に展示されていた彼の不遇の人生を送った解説が目に付いた。マラソンの日本代表の一人として、アベベに次いで国立競技場に戻ってきたことを、ほんの数年前の出来事のように思い出した。当時私は中学3年生。テレビにしがみついて声援をおくっていたのだろう。しかしテレビで状況を知り得ない競技場にいる大勢の観客は、円谷選手のすぐ後にイギリスのヒートリー選手が迫ってきていることを知らなかっだろう。競技場全体が悲鳴に似た声がとどろいた。このままでは抜かれる。疲労困憊の円谷選手にはもう余力が無い。それに比べてヒートリー選手には余裕が感じられる。観客とテレビを実況していたアナウンサーの狂ったような叫びが忘れられない。抜かれたのは悔しいが、それでも銅メダルだ。良くやった円谷選手。その後彼は自ら命を絶ってしまった。日本の長距離陸上界にとっては残念な出来事だったろう。何故そのような道を選択したのかは知らなかった。相当な理由があったのだろうぐらいにしか思っていなかったが、展示パネルにはその状況の説明がなされていた。彼を取り巻く理解者が、次々に離されていったのが一因のようだ。又、婚約者との結婚も許されなかったようだ。これじゃぁ大変ではないか。そういう時代だったのか、彼が気の毒でならない。更に様々な理由があったのかも知れないが、オリンピックで輝かしい実績を残した福島のヒーローの最後は、あまりに寂しいではないか。

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